#9
ルールとフィクション
同志社大学|美学特論 (4)
水曜5限|第9回
松永伸司
2025.06.25
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SlidoのリンクはScrapboxにあります。
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前回のリアクションペーパーへの応答もScrapboxにあります。
今日の授業のポイント
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ゲーム研究における「ルール/フィクション」の区別を大まかに理解する。
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その区別でどういう事柄が説明できそうか考える。
今日のメニュー
1. ゲームの二重性
2. へんてこな事例を説明する
1. ゲームの二重性
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『ハーフリアル』の議論
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ルールとフィクションの区別
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『ビデオゲームの美学』の図式
『ハーフリアル』の議論 [1/6]
注意点
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理論的研究の書き方・紹介の仕方として、次の2つのパターンがある。
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(a) 説明したい具体的なこと(=被説明項)を先に示してから、それを説明できる理論を提示する。
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(b) 理論を先に提示してから、それを具体的な事例に当てはめる。
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今回の授業では都合上(b)のパターンで進めるが、卒論などを書く場合には基本的に(a)のパターンをおすすめする。(a)のほうが研究のモチベーションがわかりやすいから。
『ハーフリアル』の議論 [2/6]
ユールの『ハーフリアル』
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文献の情報:
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Jesper Juul, Half-Real: Video Games between Real Rules and Fictional Worlds (MIT Press, 2005).
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邦訳|イェスパー・ユール『ハーフリアル』(松永伸司訳、ニューゲームズオーダー、2016年)
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ゲームスタディーズの古典的な研究書。
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ゲーム(とくにビデオゲーム)には、「ルール」と「フィクション」の二面性があると主張している。

『ハーフリアル』の議論 [3/6]
ユールの考え
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『ハーフリアル』(邦訳 p. 6)から引用:
タイトルの『ハーフリアル』は、ビデオゲームがふたつの異なる側面を同時に持つものであるということを表している。ビデオゲームは、プレイヤーが実際にやりとりする現実のルールからなるという点で、またゲームの勝敗が現実の出来事であるという点で、現実的(real)なものだ。一方で、ドラゴンを倒すことでゲームをクリアするという場合、そのドラゴンは現実のドラゴンではなく虚構的(fictional)なドラゴンだ。そういうわけで、ビデオゲームをプレイすることは、現実のルールとやりとりすることであると同時に、虚構世界を想像することでもある。そして、ひとつのビデオゲーム作品は、ひとまとまりのルールであると同時にひとつの虚構世界でもある。
『ハーフリアル』の議論 [4/6]
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『ハーフリアル』(邦訳 pp. 206–207)から引用:
〔シェークスピアの戯曲『ハムレット』について〕「ハムレットはデンマーク王子だ」という言明は、当の戯曲が作り出す虚構世界においては真だということになる。〔中略〕
次に、「テニスはふたりの人がラケットを使ってボールを打つゲームだ」という言明を考えよう。この言明は、通常の意味で真だ。というのも、それは現実世界についての言明であり、テニスというゲームが実際にどのようにプレイされるかについて述べるものだからだ。さらに、ビデオゲームの『Tetris』を考えよう。たとえば、『Tetris』について次のように言うことができる。「『Tetris』では、列をブロックで満たすと、その列が消える」。この言明は、いま挙げたテニスについての言明とほとんど同様に、現実世界について述べるものだ。『Tetris』のルールは物理的なものではなくプログラムされたものだが、このことは、それが現実世界について検証可能な言明であるという事実を変えるものではない。
『ハーフリアル』の議論 [5/6]
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『ハーフリアル』(邦訳 pp. 207–208)から引用:
最後に、抽象的でないビデオゲームを考えよう。たとえば、『鉄拳タッグトーナメント』について次のように言うことができる。「エディ・ゴルドはブラジル人で、カポエイラという武術を使って戦う」。この言明は真だろうか。その判断をするには、ハムレットに対する見方とテニスに対する見方を組み合わせる必要がある。つまりこういうことだ。
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1. 現実世界上には、エディ・ゴルドと呼ばれる人物は存在しないが、『鉄拳タッグトーナメント』の虚構世界上には、カポエイラという武術を使って戦うエディ・ゴルドという名前の人物が存在する。
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2. それと同時に、現実世界において、『鉄拳タッグトーナメント』のプレイヤーが、エディというキャラクタを選択し、エディを操作してカポエイラの技を使って相手を攻撃することができるということは、事実として真だ。
『ハーフリアル』の議論 [6/6]
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『ハーフリアル』(邦訳 p. 208)から引用:
第一の見方は、『鉄拳タッグトーナメント』をフィクションとして見ている。一方、第二の見方は、同じゲームを現実の活動として見ている。エディという虚構的なキャラクタについての説明は、〈『鉄拳タッグトーナメント』でこのキャラクタを選択すると、特別な技がいくつか繰り出せるようになる〉という現実世界上の事実についての説明にもなっている。つまり、「エディ・ゴルドはカポエイラの技を使って戦う」という言明は、そのゲームの虚構世界について述べるとともに、そのゲームの現実のルールについても述べているのだ。
ルールとフィクションの区別 [1/7]
ユールの考えを言い換えると
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最近松永が書いた文章(『クリティカル・ワード ゲームスタディーズ』(フィルムアート社、2025年)の『ハーフリアル』の項目)から引用:
「ハーフリアル(半分現実)」とはどういうことか。〔中略〕一言でいえば「ハーフリアル」とは、ビデオゲームが現実のルールと想像上の虚構世界という二つの側面を同時にあわせ持つということだ(後者は短く「フィクション」とも呼ばれる)。〔中略〕本書における「フィクション」は、虚構世界上の事柄を表すもの〔中略〕を指す語として使われている。この意味でのフィクションは、ボードゲーム文化の中で 「テーマ」や「フレーバー」と呼ばれてきた側面におおむね相当する。あるいは大雑把に言えば、伝統的にビデオゲームの「ストーリー」と呼ばれてきた側面にある程度は対応するとも言える〔中略〕。
ルールとフィクションの区別 [2/7]
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続き
一方、本書において「ルール」という語が指すものは、かなりのページを割いて説明されてはいるが、あまりはっきりしない。ゲームが持つ「行為のデザイン」としての側面の全体を指す語として使われているというのが穏当な解釈だろう。〔中略〕ユール自身の言葉を借りれば、「ふつう、ひとつのゲームについて、そのフィクションの側面とルールの側面は明確に区別できる。たとえば、チェスのルールは駒の動きを支配するものであるのに対して、チェスのフィクションは駒の形状や色からなる。駒の形状がどうなろうが、そのルールもゲームプレイも戦略も同じままだ」。言葉づかいはともかく、ここでユールが述べていることは、およそビデオゲームやボードゲームにそれなりに馴染みのあるプレイヤーであれば、すぐに理解できるだろう。
ルールとフィクションの区別 [3/7]
行為のデザインとしてのルール
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最近松永が書いた文章(『クリティカル・ワード ゲームスタディーズ』(フィルムアート社、2025年)の「ルール」の項目)から引用:
当然ながら、ゲームのプレイは行為の一種だ。ゲームをしているときにプレイヤーが行う行為は、いろいろな要素によって、特定のあり方になるようにある程度まで仕向けられている。プレイヤーはそのゲームの中で何ができ、何ができないか。そのゲームの中では、何にどんな価値や意味が与えられているか。そのゲームの中では、何が起きるとどうなるか。こういった要素がプレイヤーの行為を形づくる。その意味でゲームは、法律や制度や建物などと同じく〈行為をデザインするもの〉の一種だと言っていいだろう。〔改行〕そのようにプレイヤーの行為をデザインするものとしてのゲームの側面が「ルール」と呼ばれることがある。
ルールとフィクションの区別 [4/7]
虚構世界を描くものとしてのフィクション
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最近松永が書いた文章(『クリティカル・ワード ゲームスタディーズ』(フィルムアート社、2025年)の「フィクション」の項目)から引用:
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〔「フィクション」という語の〕第三の用法は、小説作品や映画作品やマンガ作品に代表されるようないわゆるフィクション作品を「フィクション」と呼ぶ用法だ。この意味での「フィクション」は、〈虚構世界上の事柄を描くもの〉と言ってもいいだろう〔中略〕。ビデオゲームの大半は、この意味でのフィクションの側面を持つ。『Cyberpunk 2077』は、『ブレードランナー』風の近未来都市とその中での人々の生活やそこで生じる出来事を描く。『Cities: Skylines』は、現実のどこにもない都市のあり方をシミュレートする。いずれもそこで表象されているのは、現実世界の事柄ではなく、ある虚構世界の中の事柄だ。
ルールとフィクションの区別 [5/7]
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続き
フィクションであるかないかは、それが描いている内容がどこまで現実世界から遠いかどうか(写実的でないかどうか)という話ではない。内容が真か偽かの違いではなく、文字通りの事実を聞き手に伝えるためにその内容を使っているか(例えばニュース番組や新聞記事のように)、ある虚構世界上のいろいろな事柄を受け手に想像させるためにその内容を使っているか(例えば多くの娯楽映画作品のように)の違いである。実在の歌舞伎町の街並みを写実的に描くゲームも、ドラゴンの群れが空を飛ぶゲームも、どちらもフィクションであることには変わりがない。
ルールとフィクションの区別 [6/7]
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続き
イェスパー・ユールが言うように(Juul 2005)、この意味でのフィクションの側面を積極的に押し出す(もっと言えば、それがゲームプレイの主な焦点になる)という点は、ビデオゲームとそれまでの伝統的なゲームの、全体としての傾向の違いのひとつだと言っていいかもしれない。もちろん、『テトリス』をはじめとしたパズルゲームの多くがそうであるように、フィクション要素をほぼ持たないビデオゲーム作品もあるし、逆に例えば『パンデミック』のように、具体的な虚構的状況を生々しく表象するタイプのボードゲーム作品もある。フィクションの側面を特に重視するゲームジャンルの代表であるRPGは、もともとはウォーゲームという卓上ゲームの文脈で生まれたものだ。とはいえ、歴史的に見て、ビデオゲーム文化の全体が、従来のボードゲームやスポーツの文化に比べればはるかにフィクション要素を求める傾向にあったということは否定できない〔中略〕。
ルールとフィクションの区別 [7/7]
ひとまずのまとめ
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ルール
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ゲームが持つ、プレイ行為を形づくる(=行為のデザイン)という側面。
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抽象的なゲーム(テニス、『テトリス』、etc.)にもある。
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フィクション
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ゲームが持つ、虚構世界上の事柄を描くという側面。
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映画や小説(フィクション作品)と共通する側面。
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純粋に抽象的なゲームにはこの側面がない。
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ビデオゲームは、伝統的なゲームと比べるとフィクションの比重が大きい傾向にある。
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補足:『ビデオゲームの美学』の図式 [1/2]
松永の『ビデオゲームの美学』
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文献の情報:
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松永伸司『ビデオゲームの美学』(慶應義塾大学出版会、2018年)
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ユールの「ルール/フィクション」の二項図式に加えて、ルールとフィクションのそれぞれを表す表象という観点を導入した本。結果として、ひとつの画面に対して二種類の意味があるという三項図式になっている。
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『ビデオゲームの美学』では、ユールの「ルール」が「ゲームメカニクス」と言い換えられているが、単なる言葉づかいの問題なので気にしなくてよい。実質はユールの「ルール」と大差ない。

補足:『ビデオゲームの美学』の図式 [2/2]
※余談:冒頭の入出力サイクルの図中のコンピュータ部分に「COMP-U-TAR」という綴りがあるが、これは引用元の図でなぜかそうなっているだけである。おそらく意図的なミススペリングだと思われるが、どういうニュアンスなのかは謎。
Slido確認タイム
2. へんてこな事例を説明する
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ビデオゲームあるある
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理論のいろいろな使い道
ビデオゲームあるある [1/9]
へんてこな事例
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ビデオゲームにそれなりに馴染んでいる人であれば、以下で挙げるような不自然な事例に出くわすことがしばしばあると思われる(あるあるすぎてもはや「不自然」に思わないかもしれないが)。
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「ルール/フィクション」の区別を使うと、そうした事例がわりとすっきり説明できる。
ビデオゲームあるある [2/9]
事例①:そこにあるのにキャラクターに見えていない矢印
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『ゼルダの伝説 風のタクト』の事例(動画)
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黄色の矢印に注目。明らかにリンクやその他のキャラクターと同じ空間内にあるにもかかわらず、それらのキャラクターにはおそらく見えていない。
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ちなみに画面左上のライフマークや画面右上のボタンマークは、とくに空間内にあるわけではない(ただ画面に貼りついているだけ)。
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説明:
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矢印はルール上では存在するが、虚構世界上には存在しない。
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ということは、画面が描いているゲームの空間は、この作品の虚構世界(=リンクが生きている世界)とイコールではない(Pキャラ/Dキャラに近い構造だが、単にデフォルメされているとかいう話ではない)。
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ビデオゲームあるある [3/9]
事例②:見えない壁
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見た目的には何もないのにそれ以上進めない。壁がないのに壁がある。
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透明ではないが似たような例:
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『あつまれ どうぶつの森』の事例(動画)
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説明:
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フィクション上は壁がないが、ルール上は壁がある。
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ビデオゲームあるある [4/9]
事例③:サッカーゲームの時間の進み方
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適当なブログ記事の引用:
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透明で
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説明:
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フィクション上は90分、ルール上は20分。
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仮に画面が描いている動きをそのまま虚構世界上の動きとして解釈すると、選手はめちゃくちゃゆっくり動いている(1/5倍速)ということになる。
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たまに忘れそうになることですが、eFootballの試合は1試合20分ぐらいしかないです。
45分がたぶん5倍速ぐらいで過ぎていくので9分+ロスタイムという感じですね。
ビデオゲームあるある [5/9]
事例④:意味のない火災とそれを消したがるプレイヤー
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松永の個人的な経験:
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ここ1年くらい某ソーシャルゲームをやっていた(もうやめた)。自分の基地を育てながら、同じクランのメンバーと協力しあうタイプのオンラインゲーム。
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NPCのゾンビや他クランのプレイヤーに自分の基地が攻撃されると、基地が派手に燃えるエフェクトが出る。放っておくと半日くらい燃え続ける。ただ、この火事はほぼ飾りであり、燃え続けていても実質的な損害はない。
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仲間の基地が燃えている場合に、自分の「ダイヤ」(ゲーム内リソースのひとつ)を消費して消火してあげることができる。
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消火することはルール上まったく意味がなく、「ダイヤ」の無駄遣いでしかないが、消したがるプレイヤーはかなり多かった。フィクション(あるいは他のプレイヤーとのコミュニケーション?)の面を重視していたのだと思われる。
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ビデオゲームあるある [6/9]
事例⑤:マリオの命はいくつあるのか問題
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『ハーフリアル』(4章)から引用:
歴史的に言って、アーケードゲームは、プレイヤーに3つの命(life)を与えるものだった。ようするに、ゲームオーバーまでに3回死ねるということだ。これは『ドンキーコング』(任天堂 1981)にも当てはまるわけだが、このゲームの世界を想像しようとすると深刻な困難にぶつかることになる。〔改行〕『ドンキーコング』の虚構世界は、非常に薄っぺらく描かれているにすぎないが、それでもマリオのガールフレンドが悪いゴリラにさらわれて助けを待っているという世界を想像することはできる。〔中略〕さて、なぜマリオに命が3つあるのかを理解するのはなかなか難しい。樽や火の玉やかなとこに当たることは、ふつうに考えれば一撃で致命的なはずだ。さらにおかしなことに、プレイヤーは、スコア10,000点で追加のマリオをご褒美としてもらえる。
ビデオゲームあるある [7/9]
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続き
もちろん、厳密に言えば、どんな世界を想像することも可能ではある。それゆえ、たとえばこのマリオの謎の復活を魔法の力とか輪廻転生とかいう観点から説明できるかもしれない。しかし、ここでの要点は、『ドンキーコング』には、人が死んだあとに魔法の力で生き返るような世界のあり方を示唆するものはひとつもないというところにある。
『ドンキーコング』のプレイヤーに対して、気軽な調査をしたことがある。そこでは、すべてのプレイヤーがこのゲームのルールの観点からマリオに命が3つある理由を説明した。つまり、命がひとつしかないとゲームが難しくなりすぎるからという説明だ。これはようするに、ゲームのフィクションを想像するのが難しすぎる場合、われわれはゲーム内の出来事を説明するのに当のゲームのルールをあてにすることがあるということだ。マリオが生き返っているわけではない(フィクション)。たんにプレイヤーに3つの命が与えられているというだけだ(ルール)。
ビデオゲームあるある [8/9]
もしかしたら『ドンキーコング』時代のマリオはクローン人間の集団だったのかもしれないし、自由に分裂できる分裂人間だったのかもしれない。そう考えるとマリオは命が3つあるのではなく3人いたとも解釈できるわけである。
ただし、ファミコン時代の作品はむしろこっちの解釈のほうがスタンダードだったような気がしなくもない。たとえばファミコン版『ドンキーコング』の説明書には「マリオは一人減ります」という記述が見られるのだが、このようなあたかもマリオが複数人いるような書き方は何も本作に限ったことではないのだろう。
ビデオゲームあるある [9/9]
へんてこ事例の募集
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こういう変な事例もあるよ、みたいなのがあればSlidoやリアクションペーパーに書いていただけるとありがたいです。
理論のいろいろな使い道 [1/5]
「ルール/フィクション」の使い道
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「ルール/フィクション」の二項図式(およびそれに画面の層を加えた三項図式)は、変な事例の説明以外にも、いろいろな使い道がある。
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ここではそのうちのごく一部だけを取り上げる。
理論のいろいろな使い道 [2/5]
使い道①:〈フィクション ➡ ルール〉という表象を説明する
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『ドラゴンクエスト』の事例(動画)
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『ドラクエI』冒頭の有名なチュートリアルのシーン。
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武器・防具や宿屋についてのセリフなどは、ルール上の機能を明示的に示している。ローラ姫がどうこうというセリフは、ほぼ純粋にフィクションの側面しかない(ゲームプレイを動機づける・方向づけるというルール上の機能も多少あるが)。
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一方、画面上の扉や階段のグラフィックは、まずフィクションの側面を持ち(虚構世界上のその場所に扉や階段があることを表す)、その上で、それがルール上どういう機能を持つかをプレイヤーが自然に推測できるようになっている。
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フィクション上の扉 ➡ ルール上、開けられるもの、開ければ通れるもの
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フィクション上の階段 ➡ ルール上、別の場所に移動できるもの
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理論のいろいろな使い道 [3/5]
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この種のことはビデオゲームをプレイしていれば当たり前のように生じるプロセスであり、わざわざ理論的に分析するような事例ではないと思うかもしれない。ただ、この〈フィクション➡ルール〉の推測がうまくいかない事例も実はけっこうある。
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『マザー』の開けられない扉(動画)
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〈フィクション上の扉 ➡ ルール上開けられるもの〉という常識的な推測が失敗しているケース。
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『McPixel』の謎ルール(動画)
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〈フィクション ➡ ルール〉の推測ができなさすぎて笑えるというケース。
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アドベンチャーゲームの謎解き全般(動画)
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〈フィクション ➡ ルール〉の推測そのものがゲームの楽しみになっているケース。ミステリー小説と同じくフィクション上の推理としての側面もあるが、それ以上にルール上で何をする(どのコマンドを実行する)のが正解かを探るゲームになっている。
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理論のいろいろな使い道 [4/5]
使い道②:工夫のある作品を記述・分析・評価する
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ルールとフィクションのずれをうまく利用したビデオゲーム作品もよくある。そうした作品を適切に記述・分析・評価するには、その概念的な区別が必要である。
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「壁は通れないもの」「プレイヤーキャラクターは変わらない」といった常識的なルール=フィクションの整合性をずらしていくパズルゲーム。
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フィクションとしては三次元空間だが、ルール上は純粋な二次元空間として成り立っている。そのずれによって独特の感覚が与えられる作品。
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ネタバレ回避で作品名は挙げない
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純粋にルール上の存在であるはずの「セーブ」を、フィクション上のキャラクターが操作できる(たとえばセーブデータを削除してくる)といったメタフィクション的な作品。
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理論のいろいろな使い道 [5/5]
まとめ
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「ルール/フィクション」はとりわけ汎用性が高い理論的概念なので、当てはめられる具体例やそれを使って考えられることは無数にありえます。自分でも使い道を考えてみてください(ゲーム以外に適用しようとするのはポイントがずれることになりがちなので慎重になったほうがいいですが)。
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具体例への適用だけでなく、この概念を知ることでビデオゲームやアナログゲームも含めたゲーム一般(およびそれについての人々の語り)に対する解像度が増す感じがわかっていただけるとなおよいです。
スライドおわり
同志社大学 美学特論(4) #9
By Shinji Matsunaga
同志社大学 美学特論(4) #9
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