#6
スノッブとその悪徳
メディア文化学/美学美術史学 特殊講義
月曜4限/第6回
松永伸司
2023.11.27
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「美的スノッブ/スノバリー」がおおよそどんな概念であるかを理解する。
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スノッブには複数のタイプがあることを理解したうえで、そのそれぞれにどんな徳の低さ(人間としてのだめさ)があるかを考える。
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スノバリーの観点からダサ判断が関わる諸事例についてあらためて考えてみる。
今日の授業のポイント
今日のメニュー
1. スノッブとは何か
2. スノッブの種類と悪徳
3. ダサ判断とスノバリー
1. スノッブとは何か
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用語の確認と典型例
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言葉の由来
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美的スノッブの特徴づけ
用語の確認と典型例 [1/3]
用語
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スノッブ(snob)
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いわゆる〈俗物〉のこと。ある種の人を指す。詳しい特徴づけは後述。
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今回取り上げるのは、もっぱら美的スノッブ、つまりある種の〈美的に徳が低い人〉にかぎる。なので「スノッブ」を「美的スノッブ」の略として使う。
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スノバリー(snobbery)
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いわゆる〈俗物根性〉のこと。スノッブが典型的にやるような行動や態度、あるいはそれらを生み出す心的傾向を指す。「スノッブ行動」や「スノッブ的態度」などと言い換えてもいいかもしれない。
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「スノビズム(snobbism)」もおおよそ同じ意味で使われるが、今回は「スノバリー」で通す。
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用語の確認と典型例 [2/3]
スノッブの典型例
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マシュー・キーランの論文から引用(強調は引用者による):
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「「イリー」ブランドを良いコーヒーのしるしだと思っているコーヒー飲みを考えよう。この人はあたりのカフェを探し回って、このブランドが使われているところにだけ行く(そしてスターバックスには行かない)。この行動にはすでにスノバリーの気があるが、鑑賞の対象がコーヒーの味であるかぎりは、必ずしもスノバリーではない。一方、これと同じ行動をしつつ、コーヒーの鑑賞が〔味ではなく〕社会的な理由に動機づけられている人がいたとしよう。この人は、それがイリーのコーヒーであるというまさにその理由でコーヒーを鑑賞する。なぜそうするかというと、この人は、自分がそのブランドに結びついた人種でありたいと望んでいるのだ。」(Kieran 2010, 243)
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用語の確認と典型例 [3/3]
注意点
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あとで見るように、実際には美的スノッブとされる人々には、複数のタイプがいるとされる。キーランがここで挙げているスノッブ(ブランド名だけを気にしてコーヒーを選ぶ)は、そのうちのひとつのタイプである。
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また、次に見るように、“snob”という英語の言葉の意味合いとその典型例は、歴史的にけっこう変化してきたらしい。
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なので、いま示した例だけで、スノッブはこれこれだという理解をしないほうがよい。
言葉の由来 [1/3]
言葉の由来と意味の変遷
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以下の記述は、Patridge(2023)におおむね依拠している。
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「スノッブ」という言葉の早い使用例は、18世紀後半のイギリスで〈靴の修理屋〉を指すのに使われたケースらしい。ただし、この段階では人をけなすニュアンスはまだなかった。
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続いて、18世紀末にケンブリッジのコミュニティで、〈都会者〉(いまで言う”townie”に相当)を指すスラングとしての用法が現れる。
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その後、1830年代までに、侮蔑語として広く使われるようになった。
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この段階での「スノッブ」は、〈社会的に地位が低く(social lower)、品がなく(vulgar)、趣味が悪く(poor taste)、「育ち」が悪い(pood “breeding”)人〉、つまり〈社会的に地位が低いことを一因として、何かを判断する/行うための能力(とりわけマナーと美的な領域で使う能力)がろくに形成されていない人〉を侮蔑的に指す語として使われた。
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言葉の由来 [2/3]
続き
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とはいえ、この〈劣った趣味を備えた地位の低い下品な人〉という意味でのスノッブは、現代的な意味でのスノッブではない。現代的な意味でのスノッブは、そこからもう一歩進んだものである。
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サッカレー『俗物の書(The Book of Snobs)』(1848年刊、邦訳の題は『いぎりす俗物誌』)
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いろいろなスノッブの事例を挙げて揶揄する本。
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そこでは、田舎のスノッブ、夕食会のスノッブ、宗教的なスノッブ、知識人のスノッブといったさまざまな種類のスノッブが挙げられているが、それらのスノッブはいずれも、上流階級の物や人々とのつながりを通じて自分の社会的な地位を高めようと勤しむ人物であるという点でコケにされている。
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言葉の由来 [3/3]
続き
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サッカレーのスノッブ観では、スノッブとは〈ソーシャルクライマーのなり損ない(failed social climber)〉ということになる。ようするに〈成金・成りあがり者(parvenu)〉のニュアンスである。
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現代で「スノッブ」と言われる場合、典型的にはこのタイプの人物が想定される。キーランが挙げるスノッブ(スタバには行かずイリーを好むコーヒー飲み)も、このタイプに当てはまる。
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ただし、あとで見るように、現代ではさらに、これとは異なるタイプの人物を「スノッブ」と呼ぶ用法も出てきている。
美的スノッブの特徴づけ [1/3]
キーランによる特徴づけ
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キーランは、このタイプ(ソーシャルクライマー型)のスノッブを次のように特徴づけている。
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当の判断の対象が実際にこれこれの性質を備えているという事実にもとづくのではなく、たんに自分の社会的な地位を高めたい(他の人々によい印象を与えたい、あるいは他の人々に優越したい)という欲求にのみもとづいて、その対象についての美的判断をする(あるいは美的判断をしているかのように見える)傾向にある人。
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キーランは、その手の不純な動機にもとづく美的判断を「スノッブ的判断」と呼んでいるが、スノッブは、たまたまある場面でスノッブ的判断をしてしまった人というよりは、スノッブ的判断を日頃からルーチンとしてやっているようなタイプの人のことである。
美的スノッブの特徴づけ [2/3]
補足
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ソーシャルクライマー型は、典型的には「高尚」志向の権威主義的なスノッブが想定されるだろうが、必ずしもハイブラウ志向でなくとも、このタイプのスノッブになりえる(対象が何であれ、とにかく自分の社会的な地位を高めることを動機として不純な美的判断をするという特徴づけなので)。
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松永(2018)から引用:
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「古典である、伝統的である、高級である、高尚である、有名な批評家が良いと言った、流行りである、等々の事実それ自体に、美的判断が動機づけられることがある。この種の判断をしがちな人々は「スノッブ」と呼ばれ、その傾向性は「スノビズム」と呼ばれる。〔改行〕スノビズムのあり方は、権威主義的なものだけではない。主流やエスタブリッシュメントに反している(つまりカウンターやオルタナティブである)という事実それ自体に美的判断が動機づけられることもまた、スノビズムの一種だ。」
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美的スノッブの特徴づけ [3/3]
以下で見ていくこと
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ソーシャルクライマー型以外にどんなタイプのスノッブがいるのか。
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スノバリーは一般に悪徳である(vice)とされるが、各タイプのスノッブは、それぞれどんな点で徳が低いのか。
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スノバリーの観点から見ると、何かを「ダサい」とする判断はどのように整理できるか。
2. スノッブの種類と悪徳
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ソーシャルクライマー型とその悪徳
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エリート自負型とその悪徳
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文脈無視型とその悪徳
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直球の階級差別型とその悪徳
ソーシャルクライマー型とその悪徳 [1/7]
スノバリーの区別
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ステファニー・パトリッジ(Patridge 2023)は、スノバリーを以下の4種類※に区別している(それぞれのタイプのネーミングは松永による※)。
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ソーシャルクライマー型
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エリート自負型
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文脈無視型
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直球の階級差別型
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※ 毎度の注記だが、これは相互排他的な区別ではない(一部は相互排他的かもしれないが)。
※ パトリッジ自身によるネーミングでは、上からそれぞれ “social contagion snobbery”、”attitudinal snobbery”、”contextual snobbery”、”straight-up classist snobbery”となるが、4つめを除いてきわめてわかりづらいネーミングなので別の名前に変えた。
ソーシャルクライマー型とその悪徳 [2/7]
ソーシャルクライマー型スノッブの特徴づけ
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すでに述べたように、ソーシャルクライマー型はサッカレーの段階ですでに見られる古典的なスノッブ像であり、またマシュー・キーラン(Kieran 2010)が想定しているタイプでもある。
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特徴づけ(再掲):
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当の判断の対象が実際にこれこれの性質を備えているという事実にもとづくのではなく、たんに自分の社会的な地位を高めたい(他の人々によい印象を与えたい、あるいは他の人々に優越したい)という欲求にのみもとづいて、その対象についての美的判断をする(あるいは美的判断をしているかのように見える)傾向にある人。
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ソーシャルクライマー型とその悪徳 [3/7]
ソーシャルクライマー型スノッブの例
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例:
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ブランド名のみを気にして(アイテムの品質を考えずに)ブランド物を好む人。
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流行のみを気にして流行物を(主に流行りはじめの段階で)好む人。
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流行を気にして流行物をあえて遠ざける人(逆張りや「通」気取り)。
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何らかの権威を持つ人(たとえばセレブリティ)のおすすめであるという理由だけでそのアイテムを好む人。
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古典作品やオーセンティックなアイテムを、まさにそうであるからという理由でのみ好む人。
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etc.
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いずれも、自分の社会的地位の向上(権威へのすり寄り、周りの人に対する優越感、趣味の卓越性の誇示、etc.)につながるという動機のみにもとづいて美的判断や美的なチョイスをしているところがポイント。
ソーシャルクライマー型とその悪徳 [4/7]
ソーシャルクライマー型スノッブの悪徳
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悪徳① ソーシャルクライマー型による美的判断は間違えやすい
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一般に、ソーシャルクライマー型スノッブは、美的判断において臆病であったり視野が狭かったりする。ようするに、自分自身の経験にもとづいた判断ができないので、既存の安定した評価だけを頼りにするような戦略をとる。
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結果として、本当の美的価値は高いが世間の評判がまだ定まっていないようなアイテムに出くわしたときに、このタイプのスノッブは、何も反応できないか、あるいは、端的な事実誤認や偏った注意の向け方や間違ったジャンル帰属をして、既存の評判と相反しないような判断をしがちである(つまり確証バイアスに陥りがちである)。
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ソーシャルクライマー型とその悪徳 [5/7]
続き
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悪徳② ソーシャルクライマー型による美的判断は正当化されない
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前々回の授業で紹介したように、正当な美的判断であるためには、いわゆる直面原理の要求を満たす必要がある。つまり、正当な美的判断をするには、判断の対象を実際に自分で直接経験して、その経験にもとづいた判断を行わなければならない。
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ソーシャルクライマー型スノッブは、自分の経験をベースにするのではなく、他人の美的判断の受け売りで対象に美的性質や美的価値を帰属する。美的性質や美的価値を対象に帰属しているという点で、それはいちおう美的判断ではあると言っていいかもしれないが、少なくとも正当化された(justified)美的判断とは言えない。
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ソーシャルクライマー型とその悪徳 [6/7]
続き
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もちろん、たんに正当化されない誤った判断をしているだけなら、愚かであるという以上の悪徳はないかもしれないが、ソーシャルクライマー型スノッブは、それに加えて、さも自分が「高尚」な(趣味のよい、品のよい、卓越した、上流の、etc.)人物であるかのようにふるまうところに、どうしようもなさがある。つまり、欺瞞(自己欺瞞も含め)の悪徳がある。
ソーシャルクライマー型とその悪徳 [7/7]
余談:全員スノッブ論
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キーランは、以上のようにソーシャルクライマー型スノッブの悪徳を述べた上で、ある人がスノッブでないことを判別することが原理的に不可能であると主張している。
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キーランによれば、それは外見的にも内観的にも判別がつかない。つまり傍から見て「あの人はスノッブでない」と見分けることも、内省に従って「自分はスノッブでない」と自覚することも、原理的には無理だという。
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そこから、実はわれわれ全員がスノッブである可能性がある(言い換えればまともな美的判断をしている人は誰もいない)という懐疑論的な帰結が生じる。
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この問題の詳細と懐疑論の回避方法については、Kieran(2010)や松永(2018)を参照。
エリート自負型とその悪徳 [1/4]
エリート自負型スノッブの特徴づけと例
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パトリッジ(Patridge 2018)が指摘しているタイプ。
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特徴づけ:
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(能力的に)格下と見なした相手を見下す社会的地位の高い人物。たいてい冷笑的な態度をとる。
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実際によい趣味を持つ(美的判断の能力が高い)人物であることもよくあり、この点はソーシャルクライマー型スノッブと異なる。ようするに自分が美的エリートであるという意識が強い人物。
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ソーシャルクライマー型が、あるアイテムが自分と大衆を差異化してくれるがゆえにそれを好むのとは違って、エリート自負型スノッブは、そのアイテムを鑑賞するための能力を自分が備えているがゆえに、自分が大衆とは異なると考える傾向にある。
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エリート自負型とその悪徳 [2/4]
続き
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例:
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パトリッジ自身が出している例は、テレビシリーズ『M*A*S*H』に登場するチャールズ・エマーソン・ウィンチェスター3世。他人を見下すふるまいをする点で明らかに徳の低い人物だが、クラシック音楽に対する判断の能力は高く、洗練された趣味の持ち主として描かれている。
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おそらく『美味しんぼ』の海原雄山もこのタイプの典型。
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このタイプのスノッブは、「自分たちが、たとえば上等なワインを飲み、上等な音楽を聴き、上等な学校に通い、上等な地域に住み、上等な家柄を持ち、上等な服装を身に着けるがゆえに、人として優れていると考える。」(Patridge 2023, 4)
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エリート自負型とその悪徳 [3/4]
エリート自負型スノッブの悪徳
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エリート自負型スノッブの場合、美的判断そのものは正当化されるだろうし(自分自身の経験にもとづいてきちんと判断するわけなので)、美的な能力が十分に高いのであれば、適切な美的判断もできるだろう。
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その点で、ソーシャルクライマー型とは異なるが、しかしエリート自負型には別の種類の悪徳がある。
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エリート自負型スノッブは、社会的地位の標識になるような事柄に注目して、自分と他人の優劣をジャッジする。結果として、たとえば「わたしはクラシック音楽をまあまあ適切に評価できる」とシンプルに考えるのではなく、「わたしはクラシック音楽について何も知らない大衆よりも優れた人間だ」とか「あの人はよい音楽の趣味を持っているから優れた種類の人間だ」などと考えてしまいがちである。
エリート自負型とその悪徳 [4/4]
続き
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そのように考えてしまうことは、アリストテレス的な徳の基準に反する。というのも、徳ある人であるためには、適切な理由で適切なことを行うだけでなく、徳のある行いについて分別のある態度をとる必要もあるからだ。
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ようするに、エリート自負型スノッブは、自分や他人の能力の有無や成功・不成功に対して、おかしな態度をとったり、それらを人としての優劣の基準として使ってしまう点で徳が低いということである。
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これは美的な領域にかぎった話ではなく、一般的なレベルでの徳の話になっている(なので、かなり当たり前の話に聞こえるかもしれない)。
文脈無視型とその悪徳 [1/4]
文脈無視型スノッブの特徴づけと例
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同じくパトリッジ(Patridge 2018)が指摘しているもので、社交の文脈を読み違えている(ようするに場の空気が読めていない)タイプのスノバリー。
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典型的には、ある意味で「格の低い」社交の文脈において、高度な美的スキルを無駄に発揮してしまうようなケース。
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例:
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あるビールソムリエが個人宅の庭でやるようなバーベキューパーティに行ったところ、アメリカ産のバドワイザーのビールを提供された。
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もしここで、ビールソムリエが何らかの美的な根拠をもとに(たとえば「これこれの点で質の低いビールだから」といった理由で)バドワイザーにダメ出ししたとすると、これはスノッブ的なふるまいになるだろう。
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仮にそのビールに対する美的判断が正しかったとしても、スノッブ扱いされるはずである。
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文脈無視型とその悪徳 [2/4]
続き
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この例のポイントは、〈その種の美的スキルは、一般に「格が低い」とされている事柄と比べて、ある意味で「格が高い」と一般に思われている〉という背景があるという点にある。
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文脈無視型スノッブは、その「格の違い」がわかっていないせいで、空気を読まないムーブをかましてしまうのである(逆にそれをわかった上でやっているのであれば、エリート自負型に近くなるかもしれない)。
文脈無視型とその悪徳 [3/4]
文脈無視型スノッブの悪徳
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このタイプのスノバリーのどこが悪徳なのか。
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パトリッジによれば、次のような可能性がある。
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当の社交の文脈によって、実はバドワイザーの美的性質が変化しており(美的文脈主義)、それゆえその文脈ではそれが「質の低いビール」ではなくなっているという可能性がある。
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この場合、文脈無視型スノッブの美的判断は、端的に間違っているということになる。
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パトリッジは指摘していないが、もうひとつ別の徳の低さも考えられる。
文脈無視型とその悪徳 [4/4]
続き
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空気の読めないビールソムリエが「スノッブ」とされるケースでは、美的判断を適切に行う能力そのものではなく、その場の「格の程度」を把握した上で、それに自分のふるまいを適切に合わせられるかどうかという高階の能力が問題になっている。これは「美的な諸領域の階層関係を俯瞰的に見る能力」、いわば「美的な全体マップを見渡す能力」と言ってもよい。
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この俯瞰能力がないこと自体はただの能力不足であって悪徳とまでは言えないだろうが、それを自覚しないまま自分の美的能力が他の人よりも高いという自認をしているのであれば、それは多少の悪徳(ある種の身のほど知らずという意味で)だと思われる。
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19世紀には、「育ちが悪い」おかげでズレている人を「スノッブ」と呼ぶ用法があったが、逆に「育ちがよい」おかげでズレている人を「スノッブ」と呼ぶ用法が現代では出てきているということかもしれない。
直球の階級差別型とその悪徳 [1/5]
直球の階級差別型スノッブの特徴づけと例
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ゾーイ・キング(King 2023)が指摘しているタイプで、階級差別(classist)的な考えのせいで歪められた美的判断をするタイプのスノバリー。
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キングによれば、このタイプは現代のスノバリーの典型であるにもかかわらず、美的スノッブを論じる先行論者がまったく取り上げてこなかったものだという。
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キングは、直球の階級差別型スノッブの具体例を2つ出している。
直球の階級差別型とその悪徳 [2/5]
続き
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例①:ジューシークチュールのケース
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フェリシティは、ジューシークチュールのトラックスーツ※を着て、フープイヤリングをつけ、長いつけ爪をし、オールバックのポニーテールの髪型で、がっつり化粧した人を見かける。
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フェリシティは、「その格好はチャヴィ(chavvy)※であり、ゆえに醜悪である(ugly)※」という美的判断を下す、というケース。
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※ こういう感じのやつ。
※ 「チャヴ(chav)」はある種の蔑称として(イギリスで?)使われるスラングで、〈スポーツウェアを着た反社会的な下層階級の若者〉を指すのに使われる。日本語のスラングで言えば、おそらく「DQN」に近い。この語を使うことは、社会的レイシズムの一種とされる。「chavvy」は〈チャヴっぽい〉を指す形容詞。
※ ”ugly”はこの文脈では「ダサい」と訳すのが自然だと思われるが、ややこしくなるので「醜悪である」にしておく。
直球の階級差別型とその悪徳 [3/5]
続き
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例②:キラキラクリスマスのケース
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シャーロットは、ドライブ中に、クリスマスデコレーション(キラキラ光る色の電飾、でかいインフレータブル※、屋根の上で点滅する「Santa stop here!」という標識※)で全面が飾りつけられた家を見かける。
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シャーロットは、「それらの装飾は安っぽく(tacky)、ゆえに醜悪である」という美的判断を下す、というケース。
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※ 空気を入れて膨らませるタイプの置物。おそらく、サンタクロースやモミの木や雪だるまのインフレータブルが想定されている。たとえばこういうもの。
※ 「santa stop here sign」で検索すれば、具体例がたくさん出てくる。
直球の階級差別型とその悪徳 [4/5]
直球の階級差別型スノッブの悪徳
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この種の美的判断の理由づけをするのは、わかりやすく階級差別的である。というのも、フェリシティやシャーロットは、当の事物を選んだ人が「下層の(lower)」階級に属することを、それに対して否定的な美的判断をしたことの理由にしているからだ。
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そしてそのせいで、当の事物の価値を実際よりも低く見積もってしまっている。そのように階級差別的な考えに美的判断が影響されてしまっている点で、この種のケースは美的判断として適切とは言えない。
直球の階級差別型とその悪徳 [5/5]
続き
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直球の階級差別型スノッブは、正当でない美的判断をするという点でソーシャルクライマー型スノッブに近いが、違いもある。
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ソーシャルクライマー型スノッブは、そもそも自分でまともに判断をしておらず、美的判断としての正当性がまったくない。
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それに対して、直球の階級差別型スノッブは、自分の経験にもとづいた美的判断は一応しているが、その判断の理由づけ(なぜ当の対象が醜悪であるか)をするレベルで不当な理由を持ち込んでいる。つまり、美的判断に本来関係のないはずの事実を、あたかも美的な理由であるかのように持ち込んでいるのである。
スノッブのタイプ | 例 | 美的判断の特徴と悪徳の所在 |
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ソーシャルクライマー型 | ブランド名だけを気にしてイリーを好むコーヒー飲み |
自分の経験にもとづく判断をしないので、間違えがち、かつ、まったく正当化されない |
エリート自負型 | 海原雄山「味覚音痴のアメリカ人の食べるあの忌まわしいハンバーガーを!!」 | 正当化された美的判断をするし、何なら能力が高いので正しい判断もするが、自分がそれができることに対しておかしな態度をとる |
文脈無視型 | バーベキューパーティーでバドワイザーに文句をつけるビールソムリエ |
正当化された美的判断をするが、文脈に応じた適切なふるまいがわかっていないし、美的な視野が狭い |
直球の階級差別型 | 「チャヴィ」な服装や「安っぽい」クリスマス電飾をその理由で醜悪だと判断する人 | 自分の経験にもとづいて判断している点では一応は正当化されるが、判断の根拠・理由づけに美的に関係ないものが混じっている |
3. ダサ判断とスノバリー
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スノッブ美学をダサ美学に接続する
スノッブ美学をダサ美学に接続する [1/5]
ダサ判断の対象としてのスノッブ
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スノッブが「ダサい」と判断される対象になることはあると思われる。
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たとえば、ソーシャルクライマー型スノッブや、あるいはそれ以前の〈低俗で品のない人〉という意味でのスノッブが「ダサい」と言われることは普通に想定できる。
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そうした場合は、自分でまともに美的判断ができていない(あるいは端的に趣味が悪い)という点を揶揄するために「ダサい」という語が使われているのかもしれない。
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また、文脈無視型のように「ズレた」(あるいは「わかってない」)美的判断をするタイプのスノバリーも、ダサ判断の対象になることがしばしばある。
スノッブ美学をダサ美学に接続する [2/5]
ダサ判断の主体としてのスノッブ
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一方で、スノッブが「ダサい」と判断する主体になることもあると思われる。
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たとえば、直球の階級差別型スノッブは、他人の美的なチョイスを「ダサい(なぜなら下層階級っぽいから)」と判断するわけだが、この場合、特定の仕方でダサ判断をすることがスノバリーとされている。
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エリート自負型についても同じことが言えるだろう。
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ダサ判断がしばしば循環しがち(何かを「ダサい」と言った側が別の視点から「ダサい」と言われがち)であるひとつの理由は、「ダサい」がスノッブの武器としてもスノッブを攻撃するための武器としても使えるからかもしれない。
スノッブ美学をダサ美学に接続する [3/5]
タワマン文学とスノッブ
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パトリッジが指摘するエリート自負型スノッブは、タワマン文学に代表されるような「冷笑系」の態度にかなり近い。
-
タワマン文学:
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「タワマン」や「港区」にステータスを見いだすようなタイプのソーシャルクライマーの価値観とメンタリティを上から目線で(おそらくは自分のほうが文化的洗練の度合いが高いというエリート意識を暗に伴いながら)皮肉る主にインターネット上の言説。マンガで表現するタイプもけっこうある。
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例:窓際三等兵「TOKYO探訪第4話 茗荷谷」
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ただ、タワマン文学は自分が安全圏にいるような態度をとる点で、エリート自負型の典型(海原雄山)よりもさらにたちが悪い(そのぶん徳も低い)かもしれない。
スノッブ美学をダサ美学に接続する [4/5]
サブカルとスノッブ
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いわゆる「サブカル」的なメンタリティとムーブも、エリート自負型スノバリーにいくらか近い面があるかもしれない。
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サブカル:
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とはいえ、タワマン文学とは違って、他人を「ダサい」とディスることがつねに自分に跳ね返ってくる可能性があるという危機意識を持っている(それゆえ病みがちである)と言えるかもしれない。実際、サブカルな人々を描いたフィクション作品では、他人を小馬鹿にしていたサブカルな人がその態度のせいでいろいろとうまくいかなくなるという展開をすることがよくある。
スノッブ美学をダサ美学に接続する [5/5]
さらなるつながり
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スノバリー(各種)とダサ判断のつながりは他にもいろいろありえると思うので、みなさんのほうでちょっと考えてみてください。
参考文献
今回引いた英語論文
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Patridge, “Aesthetic Snobbery,” Philosophy Compass 18, no. 9 (2023). https://doi.org/10.1111/phc3.12940.
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今回の授業の構成はこのサーベイ論文にかなり依拠している。最初に読むものとしておすすめ。
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Kieran, “The Vice of Snobbery,” The Philosophical Quarterly 60, no. 239 (2010).
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美的スノッブ論の始点になった重要論文。
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Patridge, “ Snobbery in Appreciative Contexts,” British Journal of Aesthetics 58, no. 3 (2018).
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King, “On Snobbery,” British Journal of Aesthetics 63, no. 6 (2023).
日本語で読める参考資料
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松永「スノッブのなにが悪いのか」発表資料、2018年
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論文ではなく口頭発表時の配布レジュメだが、ある程度読み物として読める。
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仮に全員スノッブだとしても、「いいスノッブ」と「わるいスノッブ」の区別ができれば問題ないという内容の議論。
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おわり
次回か次々回くらいに
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メディア文化学/美学美術史学特殊講義 #6
By Shinji Matsunaga
メディア文化学/美学美術史学特殊講義 #6
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