系共通科目(メディア文化学)講義A
月曜4限/第7回
松永伸司
2025.06.16
SlidoのリンクはScrapboxにあります。
前々回のリアクションペーパーへの応答もScrapboxにあります。
前回分の応答はまだ作っていません。
AとBの線引き
ほぼ毎回書いている気がしますが、あらためて目立つように書いておきます。
「線引きは?」とか「この事例(微妙な例)はどっちに入るの?」みたいな発想は害が多く益が少ないので、その手の疑問が頭に浮かんでも気にせずに済ますという癖をつけてみてください。線を引かないと「腑に落ちない」ように感じるなら、第2回のスライドを見返してください。(続きはScrapboxで。)
どこからが虚構世界で、どこからが現実世界なのかという線引きが明確にあるのか。また、線引きがあるのなら、それはどのようなものなのか知りたい。あるものがフィクションかどうかの説明に、現実世界/虚構世界という差が用いられていたが、上記のような疑問がうまく解消できなかったため、腑に落ちないような感じがあった。
あるものが何かとして機能すること
「グラフィックがフィクションとして機能する」みたいな言い方をするのが自然です。「フィクション」と「グラフィック」は概念としては別物ですが、具体例のレベルでは一致することもあります。比喩で言えば、「ドナルド・トランプはアメリカ大統領として働いている」みたいなのと同じようなことです。(続きはScrapboxで。)
Slidoの質問でもいくつか取り上げられていましたが、「グラフィック」(信長の野望で忍者が無理のある偵察をするアニメーションが入る、など)と「フィクション」の違いがよく分からなかったです。今のところ「グラフィック」は「キャラクター画像」、「フィクション」は「キャラクター」というような類比で考えているのですが、だいたいこういう理解でいいのでしょうか。
美的判断・美的性質といった美学の中核的な概念を大まかに理解する。
一定の作品群に見いだせるパターンの歴史を研究するアプローチの具体例と留意点について理解する。
1. 美的判断・美的性質とはなんだ
2. パターンの歴史を研究する
美学という分野について
美的判断の例示と特徴づけ
美的判断の正当化
前回授業の一部おさらい
美学は哲学の一分野。
一般に「美学は美・芸術・感性についての哲学」だとしばしば言われる。
美学では「美的ホニャララ」という専門用語がたくさん出てくるが、ここでの「美的」は"aesthetic"の訳であり、"beautiful"とイコールではない。
日本の美学者には、"aesthetic"を「感性的」と訳したがる人も多い。
「男の美学」「小津安二郎の美学」みたいな俗な意味での「美学」は、研究分野としての美学に関係ない。
追加の情報
美学の対象は芸術に限られない。また、美的判断は芸術作品に対する判断とイコールではない。
説明は省くが、気になる人は去年の授業スライドを参照。
現代美学では、〈美的ホニャララについての哲学〉と〈芸術についての哲学(philosophy of art)〉は分けておきましょうというのが標準見解になっている。ただし、〈美的ホニャララについての哲学〉も「美学」と呼ばれるので、結果として、広義の美学の中に狭義の美学と芸術の哲学が含まれるというややこしい関係になっている。
広義の美学:狭義の美学と芸術の哲学を合わせたもの
狭義の美学:美的な事柄(美的判断、美的性質、etc.)に関わる論点を論じる哲学分野。
芸術の哲学:芸術作品とその制作・受容に関わる論点を論じる哲学分野。
広義の美学
狭義の美学
美的な事柄とそれに
関する諸論点を
論じる哲学
芸術の哲学
芸術とそれに関する
諸論点を論じる哲学
めちゃくちゃ多い誤解なので、以下の点に注意すること。
美学は、美の判定基準や成立条件を特定する学問ではない。美学を学んだからといって、どの事物が美しくて何が美しくないかがわかるわけではない。
美学は、美の法則や作り方を教えてくれる学問でもない。美学を学んだからといって、きれいなパワポが作れるようになるわけではない。
たとえば、黄金比のような特定の比率にのっとれば物事が美しくなるとかならないとかいう与太話は、哲学の一分野としての美学の仕事に何も関係がない。
美学は「こうあるべし」とか「本当の美しさとはこれである」といった規範的主張をするものでもない。美学者の仕事は、美的判断をすることではなく、美的判断がどんな構造を持っているか、美的判断をしている人々が何をしているかを分析することである。
なぜかわからないが、経験上、これらの点は相当くどく説明しても人に伝わらないことが多い。コメントを書くときにちょっと気をつけてください。
美的ホニャララ?
美学には、美的判断、美的性質、美的概念、美的経験、美的価値といった専門的な概念が頻出する。
これらは互いに関係し合っている概念群だが、どれがもっとも基礎的な概念か(他の美的ホニャララを定義する概念か)については、論者ごとに立場が異なる。
中でもとくに、美的判断(aesthetic judgment)は、美学において伝統的に論じられてきたものである。
具体的には、通常の認識判断や倫理的判断などの別の種類の判断と比べられながら、美的判断がおおよそどんな特徴を持った判断か、その正確な特徴づけは何か、といったことが論じられてきた。
美的判断の例
まずはわかりやすい例を見る。
最初のツイート「今ひとつ機内アメニティのデザインも垢抜けないフィンランド航空。」は美的判断の表明と言ってよい。
このツイートは、特定のアイテム(フィンランド航空の特定の機内アメニティグッズの外観)について、〈垢抜けなさ〉という性質を帰属している。
また、同時にネガティブな価値づけもしている。
この判断は、おそらくは、何かしらの推論や概念的な操作によって引き出されたわけではなく、「感覚的に」あるいは「感性を行使するかたちで」(と言いたくなるような仕方で)なされている。
美的判断の大まかな特徴づけ
ごく大雑把に言えば、何らかの事物(たとえば自然物や日用品や芸術作品やパフォーマンスなど)について、その事物が感性的に把握される(と言いたくなるような)独特の性質を備えていると判断することを、「美的判断」と言う。その独特な性質が「美的性質」である。
美的判断は、価値づけ(美的な良し悪しの判断)を伴うことが多いが、価値づけをしない価値中立的なケースもよくある。
美的判断のいろんな例(適当)
この花瓶はシュッとしていてエレガントだ。
このダンスには静謐さと力強さの両方がある。
この楽曲は激しい中にもやさしさを備えている。
このコーディネートには抜け感がある。
この曲はチルい。
美的判断に関係する諸概念
美的性質(aesthetic property)
美的判断において対象が持つと言われる性質。感性的に把握される独特の質のこと。
例:垢抜けなさ、シュッとしている性、エレガントさ、静謐さ、抜け感、チルさ、etc.
美的述語(aesthetic predicate / aesthetic term)
美的判断で使われる述語。美的性質を名指す語。形容詞になりがち。
例:「垢抜けない」「シュッとしている」「エレガントである」「静謐さがある」「抜け感がある」「チルい」etc.
参考:美的述語の事例集
美的判断の対象
美的判断における美的性質の帰属先。美的判断の主語の指示対象のこと。
例:特定のアメニティグッズ、特定の花瓶、特定の楽曲、特定のコーディネート、etc.
このアイテムのデザインは垢抜けない。
マリメッコのアメニティグッズ
垢抜けなさ
性質帰属
美的判断
美的判断の対象
美的性質
美的述語
美的にいまいち
価値づけ
注意
美的判断や美的性質の大まかな特徴づけの中にある、「感性的に把握される(と言いたくなる)」ということを正確にどう特徴づけるかは、多くの美学者が取り組んできた論点である(その派生として、美的判断と倫理的判断の違いをどう説明するかといった論点もある)。諸説あるが、決定的な結論が出ているわけではない。いまだに非常に細かい議論が続いている。
ただ、美的判断という概念を〈だいたいこんなもの〉として理解するためには、そうした専門的な議論に踏み込む必要はない。
毎度のように(定義や厳密な特徴づけではなく)大まかな特徴づけと具体例ベースで理解しようと努めることをおすすめする。
美的判断の特徴(とくに他の種類の判断と比べたときの特徴)としてよく言われること
①規範性
美的判断には、「正しい」判断と「間違っている」判断の区別がある(少なくとも人々は美的判断をそのようなものとして扱っている)。つまり、正当性の度合いに差がある。
この点で、美的判断はただの個人的な好き嫌いとは異なる。
②判断の根拠の一般化できなさ
美的判断は、しばしば理由づけ(なぜその判断が正当だと言えるのか)を伴う。しかし、その根拠はふつう一般化できない(これこれの条件を満たせばしかじかであるといった法則がない)。
この点で、美的判断は倫理的判断や有用性の判断とは異なる。
③知覚との類比
美的判断を行うための経験や、その判断を正当化するための手段は、通常の知覚(たとえば色知覚)やその正当化のあり方に近い面がある。
知覚的証明とその困難さ
判断の正誤は言いたい(①)、ただしその根拠は一般化できない(②)、という特徴があるおかげで、美的判断の正当化は独特のあり方をしている。
知覚的判断(たとえば「この本のカバーは群青色だ」)の正当化は、一般に知覚的証明という方法によって行われるとされる。
知覚的証明とは、ようするに、判断者が述べている知覚経験(たとえばその本のカバーが群青色に見えること)と同じ知覚経験を聞き手自身がすることで「たしかにわかる」と納得すれば、当の判断の正当化がある程度達成されるという話である。
美的判断(たとえば「この本の装丁は落ち着きがあり格調高い」)もまた、知覚的判断と同じく知覚的証明によって正当化が行われると言われる(③)。
続き
ただし、通常の知覚(たとえば色の知覚)が、それを適切に行うための能力をある程度標準化できるのに対して、美的判断を適切に行うための能力はほぼ標準化できない(加えて、大多数の人がその能力を持つとはとても言えない)。
一般に美的判断が、明らかに規範性を伴いながらも、その正当化が難しい(結果として美的判断は好き嫌いと違わないと主張する人々が続出する)のは、こうした事情による。
ちなみに、この「美的判断を適切に行うための能力」は、美学の中で伝統的に「趣味(taste)」という名のもとで論じられてきた。「趣味がいい/悪い」という意味での「趣味」はこの意味である。
参考:別の大学での授業資料
Slido確認タイム
美学史関係
井奥『近代美学入門』筑摩書房
良質の入門書。
美学についてほぼ知らない状態であれば、まずこれを読むことをおすすめする。
小田部『西洋美学史』東京大学出版会
美学や哲学について少しは勉強したことがある人向け。
さらに勉強するための入り口になる。
佐々木『美学辞典』東京大学出版会
辞典というよりは教科書に近い。
文章は難しいが、美学の基本的な事項がまとめられている。
「~~入門」を読むときの注意点
「入門」と銘打っているにもかかわらずまったく入門できない本は世に無数にあるので、「~~入門」を手当たり次第に読めばよいというわけではない。
とくに初学者は最初に変な本に当たると、受け身がとれないぶん、ひどいことになりかねないので注意。
読まないほうがましな本や論文もあるという認識を持っておいたほうがよい。
分析美学における美的判断関係
源河『「美味しい」とは何か』中央公論新社、2022年
源河『悲しい曲の何が悲しいのか』慶應義塾大学出版会、2019年、2~3章
最初に読むべき2冊。
後者は2~3章が美的判断・美的性質の話になっている。美的判断の「主観性/客観性」がどうしても気になる人は、これを読めば疑問がある程度解消されるだろう。
シブリー「美的概念」吉成訳、西村編訳『分析美学基本論文集』所収、勁草書房、2015年
フランク・シブリーの古典的論文。
シブリーは美的な事柄の独特さをきわめて精緻に論じた論者だが、邦訳はいまのところこれしかない。
ステッカー『分析美学入門』森訳、勁草書房、2013年、3~4章
難しいので最初に読むのはおすすめしないが、源河本を読んだうえでもう少し勉強したい場合に読むとよい。
Zangwill, "Aesthetic Judgment," Stanford Encyclopedia of Philosophy. https://plato.stanford.edu/entries/aesthetic-judgment/
Shelly, "The Concept of the Aesthetic," Stanford Encyclopedia of Philosophy. https://plato.stanford.edu/entries/aesthetic-concept/
知覚的証明関係
シブリー「美的概念」吉成訳、西村編訳『分析美学基本論文集』所収、勁草書房、2015年
おすすめの古典的論文。
この論文の後半では、美的性質を人にどう知覚してもらうか(それによって知覚的証明を達成するか)について、考えられるいろいろな方法が論じられている。確実に成功する方法などないというのも含めて、示唆に富む指摘がたくさんある。
源河「美的性質と知覚的証明」『科学哲学』47巻2号、2014年
ピンポイントでこの話題を扱っている論文。内容は専門性が高くて難しいかもしれないが、オンラインで手軽に読めるのでおすすめ。
美的性質のパターンとしてのaesthetic
様式とはなんだ
様式論の進め方
様式論の課題
美的性質の一種としてのaesthetic
前回授業で取り上げたaesthetic(すべてではないとしても少なくともその大多数)は、美的性質の一種であると言ってよい。
個々のaestheticは、感性を使って把握される(と言いたくなる)ような独特のヴァイブであり、「このアイテムはこれこれのaestheticだ」という判断は、美的判断が一般に持つ特徴(規範性、根拠の一般化できなさ、正当化の困難さ)を持っている。
とはいえ、aestheticは、ある意味でパターン化された性質であるという点で、美的性質一般とは異なる面もある。
美的性質として見たときのaestheticの特殊性
松永「インターネット文化のaesthetic」から引用:
aestheticには、たとえばエレガントさ、野暮ったさ、けばけばしさ、味気なさ、小ぎれいさといった典型的な美的性質には必ずしも見られない特徴もある。〔改行〕第一に、aestheticはパターン化されたものである。ここで「パターン」の定義を議論するつもりはないが、ポイントは「あのタイプ」「あれ系」といった言い方が自然に成り立つという点にある。それは、当の美的性質を支える非美的な諸要素の傾向をある程度まで特定できるということでもあるだろうし、その美的性質を模範的に具体化している範例を示せるということでもあるだろう。第二に、そのパターンに明確な名前が付けられている。これは言い換えれば、そのパターンを共有し、伝達し合う言語的な実践が明確に成り立っているということだ。
問い
aestheticも含めた美的性質のパターンを対象にした研究は可能なのか。仮に可能だとして、方法論上の難しさや注意点はないのか。
実際、メディア文化学では(おそらく他専修でも)その種のテーマで卒論を書きたいと思う人が毎年少なからずいる。
ただ、そのテーマのもとで具体的にどうやって研究を進めるか、それを十分な説得力と意義を持った研究として成り立たせるにはどうすればいいのか、といった方法論的な問題に直面して困る(場合によっては、その結果別方向のテーマに変える)ケースもよく見かける。
以下では、その種の研究の代表とも言える様式論のアプローチを紹介する。
個別作品の研究か、パターンの研究か
個々のアイテム(たとえば個々の作品)の性質についてあれこれ言うのは、研究というより、批評あるいはレビュー以上のことにはなりづらい。それはたとえば、ラーメン批評ブロガーがやっていることと実質的に変わらない(ただし「作品論」という名のもとにそういうのが研究として認められる分野もある。この点は次回授業で扱う予定)。
一方で、たとえばある一定の文化的なアイテム群について、それらに共通に見られる主流のパターン(=型)の歴史的変遷を追うとか、その変化の流れの中に個々のアイテムを位置づけるといったことをすれば、十分に「文化史研究」になると言ってよさそうである。
実際、美術史学において「様式論」と呼ばれてきたアプローチの研究の一部は、そういうことをやっている。
様式論とは
どの芸術分野であれ、一定の作品群・アイテム群に共通して見てとれる特徴的なパターンを見いだし、その歴史的な変化を追っていく研究は昔からある。そういう研究を指す決まった名称はないが、美術史学の言葉づかいにならって「様式論」と呼んでおく。
絵画であれ建築であれ音楽であれ映画であれ、芸術史の教科書は、様式論的な記述が多くの部分を占めている(高校までの教科書を想像するとわかりやすい)。
そこで取り上げられるパターンは、同じ作者や流派の作品群に共通のものである場合もあれば、より広く同じ地域・時代に共通のものの場合もある。あるいは、技術や技法にパターンが結びついていることもあるだろう。
そのように時代・地域・技術・個人・流派等々に紐づいたパターンは、一般に「様式(style)」と呼ばれる(文学の場合、日本語だと「文体」になるが、英語では同じく“style”である)。
様式の具体例
「様式」と呼ばれるものの中には、美的性質のパターンも含まれるが、美的でない性質のパターンも含まれる(技法上・技術上の特徴がそのまま美的性質に直結しているなど、両者が切り離しづらいことも多い)。
参考:別の大学での授業資料
美術史での例:
【仏像】天平様式、貞観様式、定朝様、鎌倉様式(慶派)、etc.
【建築】ロマネスク様式、ゴシック様式、ルネサンス様式、バロック様式、etc.
【絵画】ヴェルフリンによるルネサンスとバロックの5つの対比
etc.
造形芸術だけでなく、音楽などでも同様に様式の分類がなされる。
現代文化における様式
この意味での様式は、現代のいろいろなカルチャーにも見られる(美術史学その他の芸術学で扱われることがないおかげで、それらが「様式」と呼ばれることはいまのところほとんどないが)。
例:
Aesthetics Wikiで挙げられているような各種のaesthetic
ファッションにおける「~系」
ポピュラー音楽の大半のサブジャンル
etc.
様式論の進め方と目的
様式論のアプローチによる研究、つまり、一定の作品群・アイテム群に共通して見てとれる特徴的なパターンの観点からの文化史研究は、美術(造形芸術)に代表されるいわゆる「芸術」だけでなく、およそその種のパターンとその歴史的変遷が見られるあらゆる文化的領域を対象にしうる。
とはいえ、パターンについての歴史的研究は、具体的にどのような方向で研究を進めればよいのか。それは最終的に何を目指すものなのか。
昔の様式論
昔ながらの様式論の方法は、おおむね次の二段階の手続きとして特徴づけられる。
第一段階:ある作品・アイテム(群)が備える様式を特定する(場合によっては、新しい様式を発見し、新たに名前を与える)。
第二段階:その作品・アイテム(群)がその様式を備えているという事実を手がかりにして、その作品・アイテムそれ自体やそれを取り巻く環境に関する何らかの事実を推測する。
例:
第一段階:この仏像はどうも天平様式だ。
第二段階:この仏像が天平様式だということは、この仏像について(あるいはその制作者について、その制作時期について、etc.)、これこれのことが推測できる。
どんな事実を推測するか
第二段階で推測される事実には、いろいろな種類がありえる。
作者(個人であれ集団であれ)
制作時期・地域
当のジャンルに関する当時の約束事・ニーズ
当時利用可能だった技術
当時の社会的状況
受容者や作者の社会階層
先行する作品との関係(インスピレーション関係)
作者個人の心理的傾向
作者・受容者が属する集団全体の心理的傾向
etc.
現代の様式論?
ただ、様式をもとに第二段階の事実推測を行うアプローチは、現代ではあまり流行らない。そもそも様式論自体がまったく流行っていないと言ってもよい。
おそらくその主な理由は、様式以外の史料(文書資料、考古資料、物理学的・化学的調査、etc.)から推測される内容のほうが確からしいことが多いから。他の史料が十分にある場合、様式はあくまで補強材料のひとつということになる(他の史料から推測されることと様式から推測されることが食い違っている場合には、その不整合を解消する説明が求められることになるが)。
加えて、かつての様式論は、集団の心理的傾向(たとえば「時代精神」や「民族精神」)を様式のあり方から推測するということをやりがちで、その手の発想が現代では忌避されているという事情もあるかもしれない。この点については「社会反映論」を扱う回で再び取り上げる予定。
第一段階だけの様式論
古い様式論はともかく、第一段階だけ(様式のあり方とその歴史的変遷を書いていくだけ)で十分に研究として成り立つ場合もある。
たとえば、あるひとつのジャンルや文化形式に関して、「この時代はこれこれのパターンが主流だったが、次の時代はこれこれのパターンが主流になった」「全体として、こうしたパターンの移り変わりが見られる」といったことを明らかにするタイプの研究。
各種の芸術についての教科書に典型的に見られるような文化史では、いまだにそうした様式論ベースの歴史記述がなされているし、実際にそういうものが求められているはずである。
第一段階だけの様式論は、現代文化の研究のひとつの方向としても十分有望である。
第一段階だけの様式論のいい例
ゲーム研究者のイェスパー・ユールは、「デザインパターン」とその変遷という観点から、ビデオゲームの歴史を論じる方法を提案している。この「デザインパターン」は、この授業で言う「様式」とほとんど同じ概念である。
Juul, “Sailing the Endless River of Games: The Case for Historical Design Patterns”
内容については以下の授業資料を参照。
ユールがここで提唱している方法は、第一段階だけの様式論による文化史記述にかなり近いものだと思われる。
ユール自身は、とくにタイルマッチングゲーム(いわゆる落ち物パズル、マッチスリーなど)というゲームジャンルの歴史を論じているが、他のジャンルにも問題なく適用可能な方法である。
様式論の対象を広げる
手前味噌だが、2024年に出たビデオゲーム研究の論文集で、様式論的なアプローチでJRPG(ドラクエ、FFなど)の特徴を論じてみるという論文を書いた。
ドット絵(ピクセルアート)の様式論の可能性を示す論考も以前書いた。
私見では、様式論(aestheticなどの美的性質のパターンも含めて、アイテム群に共通する特徴的なパターンに注目する研究)は、古い作品よりもむしろ現代文化のジャンルやアイテムを対象としてもっとなされるべきだと思っている。
研究対象となるパターンを共有できないと研究にならない
たとえば、特定のaestheticを取り上げて、何かを論じる研究は十分考えられる。それは、現代のとくにインターネット文化上の美的実践のあり方を考える上で、非常に重要な視点だろう。
しかし、個々のaestheticが美的性質のパターンである以上、あるアイテムが当のaestheticに属するという主張を説得的に示すことが難しい場合がある。
そして当然ながら、自分が論じる対象を読み手・聞き手と共有できなければ、研究にならない。それゆえ、これは方法論上の大きな問題になる。
これは現代文化の研究だけの話ではなく、たとえば美術史学で特定の様式を取り上げる研究にもある程度同じことが当てはまる。
具体的な場面を想像してみる
自分が何か特定のaesthetic(美的性質のパターン)を研究対象として論じたいとする。
しかし、論じたいaestheticがどういうものなのかについて、周りの人(たとえば指導教員や周りの学生)はぴんときていないとする。
この場合、どのようにして当のaestheticがたしかにあることを相手に伝えればよいか。
言い換えれば、特定のaestheticを取り上げる研究において、論じる対象を聞き手と共有するために最初にするべきことは何か。
ひとまず考えられる方法(互いに排他的ではない)
①聞き手・読み手に事例を見せ(or 聴かせ)、どの特徴に注目すべきかを言語化し、それによって当のaestheticを聞き手自身が知覚できるように促す。
これは美術史学などでも使われてきた、ごくオーソドックスな方法である。前回授業で具体例を見せながらaestheticのポイントを説明したのも、この方法である。
これは知覚的証明(先の説明を参照)をやっているということである。
②当のaestheticに言及している人々(受容者や制作者)の語りを引用し、そのaestheticに意識を向けたりそれについてコミュニケーションをしたりする文化的実践が実際にある(or あった)ことを示す。
③内容分析の方法(ヒューマンコーディング、コンピュータコーディング)等を利用して、一定のパターンが計量的に見いだせることを示す。
大量の事例に触れることの重要さ
どの方法をとるにせよ、最低限、論じる意義のあるパターンを論者自身がある程度見分けられるようになっておく必要がある。それが十分にないと、質的研究をする際に人々の言っていることをろくに理解できなかったり、センスのない(ポイントのずれた)パターン分類を作り上げたりする可能性が高いからだ。
ともかく様式論をやりたい人は、対象としたいカテゴリーに属する大量のアイテム群・作品群に触れて、自分自身の目を肥やすことを意識することをおすすめする。
様式概念を理解するための文献
シャピロ/ゴンブリッチ『様式』細井・板倉訳、中央公論美術出版、1997年
マイヤー・シャピロとエルンスト・ゴンブリッチは、いずれも20世紀の芸術学の大家。この本は、それぞれによる様式概念の解説(どちらも事典の項目)を収録したもの。訳は読みづらいが、内容は非常によい。おすすめ。
松永「様式とは何か」9bit、2020年 https://9bit.99ing.net/Entry/98/
様式概念について本格的に勉強したいなら、この記事で挙げられている各文献を読むところから入るとよい。
伊藤他「〈討論〉芸術の様式について」『美学美術史論集』10号、1995年
https://seijo.repo.nii.ac.jp/records/175
複数の人が持論を展開していてまとまりがない上に抽象度が低い(概念整理が下手な)話が多いが、「様式」という語が諸芸術学の中でどういう使われ方をしているかの雰囲気をつかむにはおすすめ。
現代文化の様式論(スライド内で紹介したもの)
Juul, “Sailing the Endless River of Games: The Case for Historical Design Patterns,” The First International Joint Conference of DiGRA and FDG 2016, Dundee, 2016. https://www.jesperjuul.net/text/endlessriverofgames/
松永「ピクセルアートの美学 第2回 ピクセルアートと様式」カレントコンテンツ、2020年 https://mediag.bunka.go.jp/article/article-16323/
松永「様式化されたシミュレーション:JRPGの「不自然さ」を考える」、楊・鄧・松本編『日中韓のゲーム文化論』所収、新曜社、2024年
その他のためになる文献
ゴンブリッチ『美術の物語』天野他訳、河出書房新社、2019年
美術史学の大家による定番の通史として有名な本。
文化史記述をする際に「物知り」であることが(そしてその知識に裏打ちされた「目の肥え」が)いかに重要であるかをわかりやすく示してくれる。仮に美術史に興味がなかったとしても、様式論をやりたいなら方法論上のお手本になる。
米倉『源頼朝像 沈黙の肖像画』平凡社、2006年
国宝《伝源頼朝像》を含む神護寺三像の主題(誰を描いた絵か)をめぐる論争についての本。
神護寺三像論争には、文書史料ベースの歴史学者と絵の様式を気にする美術史学者の方法の違い(結果としてそれらの絵の主題が誰なのかについての立場の違い)が非常にわかりやすく現れている。さまざまな史料を総合的に見ながら「事実」を推測していくという歴史研究の魅力が詰まっていて、個人的にとても好きな論争である。
渡辺『認識とパタン』岩波書店、1978年
概念とは何か、パターンとは何か、機械にパターンを見いださせる/判別させるとはどういうことか、その具体的な方法はどんなものか、といった論点がスマートな語り口で書かれている本。
著者は物理学者・情報学者だが、哲学的な素養も十分にある。概念とは何かについての哲学上の論争も少し押さえられる。
古い本だが、現代的な機械学習・LLMに直結するような話題も含まれており、いま読んでも勉強になることが多い。
スライドおわり